グイノ・ジェラ−ル神父の説教
A年
復活節の主日から
キリスト聖体の主日まで
復活の主日
復活節第1主日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
復活節第7主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の主日
三位一体の祭日
キリストの聖体の主日
復活の主日A年 2017年4月16日 グイノ・ジェラール神父
使徒 10,34、37-43 コロサイ 3,1-4 ヨハネ 20,1-9
イエスの復活は、私たちの前で未来の門を開きました。 死というものはもはや人生の最終地点ではありません。 キリストの栄光と聖霊の力、そして復活の驚くべき光のうちに神の永遠が私たちに与えられています。
未来のない人はやがて絶望の中に沈み込みます。 若者も、年老いた者も皆、未来に対して計画を立てています。 この未来はたとえ暗くても皆、未来に向かって生きています。 私たち一人ひとりの内には、必ず限りのない未来の望みが眠っています。 キリストの復活は、私たちにそういう希望のある未来を与え、しかも私たちが夢に見た将来よりも遥かにもっと美しい未来です。 イエスの復活は、死と罪の支配が永遠に打ち破られ、神の愛といつくしみの国が、私たちに与えられていることを保証します。
私たちはそれを固く信じますが、同時に私たちの人生は限られていることを体験します。 確かに、私たちは善い業も悪い業も行うことができ、日常生活の試練の中で私たちの弱さが現れることもよく知っています。 私たちは限りのある人間です。 そのために、神が私たちに与えようとしている素晴らしい未来に、辿り着けないと思い込んでいます。 そして、もっと悪いことにこの素晴らしい未来は、私たちのためではないと思いがちです。
しかし、神が約束していることを私たちは信じなければなりません。 神の言葉はイエス・キリストの内に実現され、実証される愛と命の言葉ですから。 イエスの生涯のあらゆる面から検討するなら、どれ程彼の計画が失敗に終ってしまったかが良く分かります。 確かに様々な出来事の強制のために、イエスは自分が行ないたかった行動を妨げられました。 それにも関わらず、イエスはいつも父なる神に対して揺るぎない信頼を表しました。 最後の息を引き取る時まで、イエスは神にその信頼を示しました。 なので、神はイエスを復活させました。
キリストの弟子たちにとって、イエスの復活の出来事と婦人たちの証しを信じることは至難の業でした。 イエスの復活を認めるよりも、彼らは皆、強く疑いました。 そう言う訳で、イエスご自身が彼らの前に現れ、ご自分の手と足とわき腹の傷を彼らに触れさせられたのです。 その結果、キリストの復活は弟子たちを変化させてしまいました。 いつも隠れていて臆病であった彼らは、勇気をもち大胆な証し人となりました。 私たちも、信じるには心の鈍い者です。 勇気をもち大胆な人となって、「イエスは生きておられる、私は彼と出会った」と宣言するためには、私たちにとっても時間が必要でしょう。
しかしながら、イエスが開かれた新しい世界は、既に始まりました。 「わたしたちはキリストと共に復活させられた」(コロサイ2,12)と聖パウロは宣言します。 キリストの復活と共に、私たちの人生が新しい意味と価値を受けました。
イエスの復活は信頼と喜びへの招きです。 思いがけない出来事にも拘らず、生きる人生に対しても、神の愛に対しても、私たちは揺るぎない信頼を示さなければなりません。 信じることは全てを可能にします。 信じることは神に栄光を与えます。 ですから、私たちの未来となった神に感謝しましょう。 そして栄光の神秘であるキリストの復活を信仰をもって宣言しましょう。 アーメン! アレルヤ !
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)A年 2017年4月23日 グイノ・ジェラール神父
使徒2,42-47 1ペトロ1,3-9 ヨハネ20,19-31
今日、私たちは神のいつくしみの日曜日を祝っています。 今日の福音の中で、このいつくしみを発見しましょう。 まるで子供のように恐れている弟子たちは、自分たちが居る場所のドアに鍵をかけ、厚い壁で守られているので自分たちは安全だと思い込んでいました。 しかし、イエスは彼らの前に直ぐに現れて、「あなたがたに平和があるように」と、言われました。 これこそ、いつくしみの第一の言葉です。
復活されたイエスは、ユダヤ人を恐れて自分たちの家に閉じこもったままの、自分の弟子たちのところに辿り着くために、厚い壁があっても通り抜けることが出来るのです。 そうすることで、イエスは二つの事を行います。 それは先ず人々を隔てている壁を取り除き、そして勇気を与えて平和をもたらすことです。 ただ自分の現存によってのみ、イエスは人を解放し平和と喜びを豊かに与えます。 イエスの平和こそが神のいつくしみを感じられるしるしです。
「あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、イエスは断言します。 復活されたキリストは、父なる神の名によって、弟子たちの間に立っています。 今日、私たちはキリストと父なる神の名によって、教会として集められ、彼らの名によって世界の人に平和を与えるために遣わされているのです。 それは、私たちが神のいつくしみの道具になるためです。
「聖霊を受けなさい」ここに集まっている私たちは、キリストを迎えるたびに聖霊を受けるのです。 この教会の中で、父なる神が完全にご自分を私たちに委ねます。 この教会では、キリストは優しく私たちの心に愛の燃える炎である聖霊を注ぎます。 なぜなら、キリストを歓迎することは聖霊を歓迎することであり、そして、神が住まわれる場所となることです。 たしかに、私たちはイエスの名によってここに集まるたびに、三位一体の神が私たちのうちに住み、そして留まります。 これこそ、神のいつくしみの貴重な無限の神秘です。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と、イエスは言います。 私たちのうちに復活されたキリストの御体と御血をいただくことによって、私たちはキリストのいつくしみ深い働きに効果的に参加することが出来ます。 ですから、この世において私たちは、キリストの手、顔、心になって、自分たちの周りに神の赦しを注ぐ人とならなければなりません。
死に打ち勝ち復活されたキリストは、父なる神の平和のうちに私たちを入らせるために、私たち自身の意志、愛、赦しになっていることをよく考えましょう。 キリストからいただいた平和を、私たちを通して私たちによって、イエスはいつくしみを必要とする人々や私たちが出会う人々にも豊かに与えます。 そういうことを理解したら、聖ペトロが手紙の中で願っているように「試練の中にいても、心から喜びましょう」(参照:1ペトロ1,6)。 言葉で言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れ、変容され、神のいつくしみに輝く人となりましょう(参照:1ペトロ1,9)。 アーメン。
復活節第3主日 A年 2017年4月30日 グイノ・ジェラール神父
使徒 2,14、22-33 1ペトロ 1,17-21 ルカ 24,13-35
エマオの弟子たちの物語を通して、聖ルカは救いの良い知らせを宣べ伝えます。 「主は生きておられる、主は復活しました」と。 これからは私たちを愛の完成に導くために、イエスは私たちと共に、信仰と希望の道を歩みます。
絶望的な状態の時にこそ、イエスは私たちの直ぐそばに立っています。 私たちの心の目を開き、私たちの知恵に光を与えるために、また私たちの心を燃え上がらせるためにイエスはそばにいて、私たちのテンポに合わせて一緒に歩きます。 そうすることによって、私たちは喜びと信頼で満たされ、再び出発することができます。 しかし、自分の直ぐそばにおられるイエスを発見するためには、私たちはまずイエスの言葉に耳を傾ける必要があります。
試練が私たちに襲いかかる時には、まず聖書を開いて、私たちの不安な心に語るイエスのみ言葉を聞きましょう。 そうすれば、イエスは私たちを惑わしている出来事に対しての理解を与えるでしょう。 そして、愛を持って神が私たちの心に注がれた聖霊は(ローマ5,5)私たちの知恵に光を与えます。 更に、キリストの御体と御血をいただくことによって、人生の数えきれない試練を通して、一緒に歩んでおられる神に対して、私たちは感謝に溢れ、心の燃える人となるに違いありません。
しかし、ここで一つの問題が残ります。 と言うのは、自分のそばに主の現存を認めた途端に主はいつも消えてしまいます。 勿論、私たちの心に素晴らしい喜びが残りますが、それは残念ながら長く続きません。 神は隠れん坊のゲームが大好きですので、また何度も、何度も神を捜さなければなりません。 しかし、神を再発見すると同時に、私たちに対する神の愛をもっと深く感じるのです。 同時にイエスの直ぐそばに留まりたいという望み、イエスを仰ぎ見ながら彼の言葉をもっと聞きたいという私たちの飢えと渇きが、ますます強くなります。
弟子たちは、何故イエスが死を受け入れる必要があるのかを、全く理解できませんでした。 私たちも襲って来る人生の試練と苦しみの前で、無理解な人になっています。 この神秘に直面して、私たちの信仰と希望を支えるために、私たちに与えられているものは、神の愛とキリストの復活だけです。 しかし、私たちの心に神が注がれる慰め主である聖霊は、必ず人生の出来事の意味を豊かに与えます。 ですから、遠慮なく諦めずに聖霊の助けを願いましょう。
日常生活の中で、私たちはバスや電車、あるいはデパートなどで見知らぬ人々と出会います。 もし彼らを受け入れ、一緒に歩むように誘うなら、きっと彼らが私たちに良い知らせを伝え、また心を暖めるいのちのメッセージを打ち明けるでしょう。 もしかしたら、イエスご自身が見知らぬ人の姿を借りて、私たちのそばに近寄るかも知れません。 そうであれば、出会ったその人を招いて一緒に時間を過ごすことの結果は言うまでもありません。 なぜならイエスは次のように言います。 「わたしの兄弟であるこの人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ25,40)と。
ですから、イエスや聖書全体、キリストの教会が語ることを信じるために「わたしたちの心が鈍くならないように」気をつけましょう。 アーメン。
復活節第4主日A年 2017年5月7日 グイノ・ジェラール神父
使徒2,14、36-41 1ペトロ2,20-25 ヨハネ10,1-10
「わたしが来たのは、人々が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(参照:ヨハネ10,10)とイエスは断言します。 イエスが復活したので、彼が私たちに与えようとしている命はとても豊かです。 イエスはご自分の復活によって命の門を大きく開きました。 しかし、この豊かな命を受けるためには私たちは、まず自分の心のドアを開かなければなりません。 イエスは私たちの心のドアを叩いています(参照:黙示録3,26)。 なぜなら、イエスはどうしても私たちの心のうちに入りたいからです。 というのは内面的な生活なしには、キリストとの出会いは不可能だからです。
イエスの復活が、私たちを信仰に強く留まらせる助けであることを、聖ペトロが思い起こさせます。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と。 もし、私たちがキリストに属するなら、イエスの声を聞く楽しみを味わうべきです。 なぜなら「わたしの羊はわたしの声を聞く」(参照:ヨハネ10,27)とイエスは言っていますから。 日常生活は私たちの前でたくさんのドアを開きます。 これらのドアに比べイエスが開けたドアは、狭く見えますが、それは命のドアです。 昼も夜もずっとこのドアは開いています。 このドアを通って入るなら、私たちは必ず「緑の牧場」で憩いを見つけ、そして命の豊かさを味わうでしょう。
イエスを愛している証しをするためには、私たちはイエスの声を聞いて、彼に忠実に従うことが最も良い方法です。 今日私たちはここに来てイエスの声を聞くために、良い牧者であるイエスのそばに集まっています。 ここで、私たちは安全に守られていること、そして深く愛されていることを感じ信じます。 またここで、私たちはお互いに愛し合うことを学んでいます。 命の門であるイエスに倣って、私たちにも心のドアを開くように招いています。 それは私たちが開かれた命の門となり、また神への道を示す門となるためです。 その目的で、教会は詩編95編の「今日こそ、神の声を聞くなら心を閉じてはならない」(参照:詩篇95,7)という、願いを毎日唱えることを要求しています。
さらに、周りの人々に対して無関心であることを捨てて、お互いの声を注意深く聞くことを学びましょう。 もし、イエスの弟子であるなら、私たちの間で開くべきドアを決して閉めることがないようにしましょう。 実際に私たちがここに来たのは離れ離れになるためではなく、また私たちの間に壁を築くことでもなく、むしろキリストにおいて一致するためであり、また親しく語り合うためです。 というのは、良い牧者であるイエスは私たちに次のように問いかけます。 「あなたたちは、この小教区の人々を家族的な兄弟姉妹として受け入れるのか、それとも通り過ぎる人や近所の人のように見ているのか、どちらですか」と。
神の命が私たちに豊かに与えられるように、イエスはここに私たちを集め、そして一致させます。 イエスの愛が私たちに与えられているのは、聖霊の交わりのうちに私たちが互いに互いを受け入れ、愛し合うためです。 隣人への愛の実践のおかげで、私たちは神の愛に留まることができます。 ですから、良い牧者であるイエスの声を聞きながら、愛の完成まで私たちが導かれるように、お互いのために開かれた心で祈り合いましょう。 アーメン。
復活節第5主日 A年 2017年5月14日 グイノ・ジェラール神父
使徒 6,1-7 1ペトロ 2,4-9 ヨハネ 14,1-12
臨終の時に語った言葉は、その人の人生の特別な様相を表しています。 この言葉は大抵話している人のアイデンティティを凝縮しています。 イエスが自分の弟子たちに打ち明けた言葉は、臨終の時に話す言葉と同じ種類の言葉です。 現実問題として、イエスは近いうちに自分の弟子たちから離れること、そして自分が行く所へ彼らが付いて行けないことを説明しました。 それを聞いた弟子たちは途方に暮れたので、イエスは彼らを安心させようとしました。 イエスは近いうちに殺されることを良く知っているので、弟子たちに最後の勧めを与えようとします。
しかし、その勧めは弟子たちに向かって語ると同時に、イエスは私たちにも語ります。 ご自分の教えと聖体の秘跡によって、イエスはいつも私たちの直ぐ傍に、また私たちの内におられることを理解させようとします。父なる神に導く「命と真理の道」はご自身だとイエスは私たちに断言します。 そして、私たちを照らし、教え導き、それらを守るためのご自分の遺産として、聖霊を私たちに与え残しました。
「わたしを信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とイエスは約束しました。 天に昇っても主の救いの働きを止めることはありません。 キリストにおける私たちの信仰は、私たちをキリストの証人と定め、神の愛、赦し、いつくしみと平和を世界の人々に伝え、それらを実践する後継者として私たちを任命します。 信仰は神の賜物であり、イエスが私たちに与えてくださった聖霊の力の内に、この信仰は成長し強くなります。
「わたしを見た者は、父を見たのだ」とイエスは宣言します。 ちょうどイエスは「目に見えない神の、目に見えるみ顔であった」ように、信仰の絆によってキリストの神秘的な体となった私たちは「イエスの目に見えない現存を」全ての人々に見せなければなりません。 「あなたがたは、神の神殿である」(1コリント3,16)と、聖パウロは言いました。 聖ペトロはこの言葉を確認しました。 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられる」と。 初代教会のキリスト者たちと同様に、工夫し率先して行動するなら、私たちも自分たちの小教区の成長と発展のためにキリストの教会の生きた石になります。 互いに祈る時に、そして人々の世話をするために時間を使う時に、私たちは土台であるキリストに建てられて「生きた石」であることを明らかに示しています。
手紙の中で聖ペトロは「あなたがたは、王の系統を引く祭司である」と書きました。 確かに、私たちは全ての人に神の愛の素晴らしさを述べ伝える使命を受けました。 まず教会と共に共同体的に、そして次に個人的に復活されたキリストの証人として、私たちは神の救いといつくしみを宣言する責任を持っています。 更に、私たちはこの世の救いのために絶えず祈り、神の傍に執り成す責任も持っています。 神に私たちの願いと祈願を捧げる時に、同時に自分自身を供え物として(参照:ローマ12,1)捧げることを忘れないようにしましょう。
このようにすれば、イエスに倣って私たちも人々を父なる神に導く「命と真理の道」になるに違いありません。 私たちの人生が信仰と愛と希望の光で輝き、神に栄光を与え、キリストが私たちの神、私たちの救い主であることを宣言するように、聖霊が私たちの間で良く働くことを願いましょう。 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
復活節第6主日A年 2017年5月21日 グイノ・ジェラール神父
使徒8,5-8、14-17 1ペトロ3,15-18 ヨハネ14,15-21
キリストの復活の後に、弟子たちの生き方は少しずつ変わりました。 弟子たちは、イエスが言われたことを良く理解し、また恐れずにキリストについての証しができるようになり、さらに自分たちの言葉、行い、振る舞いを活動的にさせる愛が自分の内に燃えていることを感じます。 彼らは気が付きませんでしたが、聖霊が彼らの内に働き、そしていつか全世界に向かって復活されたキリストについて証しするように、聖霊が準備しました。
聖霊によって導かれた弟子たちは、初めて異邦人の地へ行きます。 内面的な力が弟子たちを新しい人、神の人として変化させます。 この内面的な力は、彼らがキリストのように考え、話し、行うように後押ししました。 これについて聖パウロは自信を持って宣言しました。 「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2,20)と。 イエスの復活によって強められた弟子たちは、今まで理解できなかったキリストの最期の言葉の意味をはっきりと悟ります。 それは、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいるように、あなた方もわたしたちの内にいるのです」(参照:ヨハネ17,21)と。 弟子たちが良く理解したことは、イエスはもはや外面的な姿をとるのではなく、自分の内におられ、そしてそれは自分たちと共に全てを行うためであるということです。
「心の中でキリストを主と崇めなさい」と聖ペトロが勧めています。 と言うのは、神は私たちに対して外面的な方ではなく、むしろ私たちの内に親密におられる方だからです。 私たちがこの神の神秘的な現存の中で生きるために、私たちに聖霊が与えられています。 残念なことですが、いくら私たちの中で神が私たちの生き方を導き、私たちの内に行うことを真心で望んでも、なかなかそれが簡単ではありません。 なぜなら、私たちの内に神ご自身と聖霊に対して邪魔をするものが多いですから。 そして、私たちにとても近いイエスが、度々遠過ぎると感じていることをはっきり認めましょう。
しかし、キリストの名によって受けた洗礼の恵みによって、イエスは私たちと共に結んだ関係の責任を持っています。 「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とイエスは断言しました。 イエスは、確かに私たちに父なる神の子の資格を与え、そして三位一体の神の充満さの内に、私たちと共に自分の全てを分かち合いたいのです。 しかし、私たちはこの世では日常生活の問題、人間的な要求と様々な不安に巻き込まれています。 イエスがこれについて忠告しました。 私たちは様々な事に巻き込まれているので「イエスを見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができません」と。
ですから、私たちの内にあるキリストの現存を強く感じ味わうために、イエスに彼を愛する恵みと共に、彼の内に留まる恵みを願いましょう。 恐れや様々な詰まらない問題、或いは自分の個人的な関心事ばかりに引き込まれない強い愛を、聖霊によって与えられるように願いましょう。 さらに、自分の内にあり神の現存の神秘を味わうことができる清い心を、聖母マリアに願いましょう。 愛の泉である聖霊が私たちに与えられたのは、神ご自身が私たちを愛しているように、私たちも互に愛することを教えるためです。 お互いのために聖霊の力を神に切に願いましょう。 そうすれば、聖霊は私たちがお互いに心から本気で愛し合うことを教えるでしょう。 アーメン。
主の昇天の主日 A年 2017年5月28日 グイノ・ジェラール神父
使徒 1,1-11 エフェソ 1,17-23 マタイ 28,16-20
もはやイエスを見ることができないからといって、彼が一緒にいないとは言えません。 イエスの最期の言葉は次のようです。 「わたしは世の終わりまで、毎日あなたがたと共にいる」と。 私たちの内に、そして私たちの直ぐ傍にキリストの現存を感じ味わうために、私たちはイエスと共に生きる強い望みを育てる必要があります。 私たちをご自分のそばに引き寄せ、父なる神に導くためにイエスは昇天しました。 「上にあるものを探し求める」(参照:コロサイ3,2)人は自分の内にキリストの現存を見つけます。
この内面的であり、親密な現存をイエスは約束しました。 「わたしを愛する人は、わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(参照:ヨハネ14,23)と。 この言葉の意味をはっきりと分からなくても、真実な言葉です。 私たちが全てをキリストのように行うように、イエスが与えた聖霊が私たちを生かすのです。 「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2,20)と聖パウロは証ししました。 確かに今でも、目に見えないイエスは私たちの手や目、行いや言葉を通して人々を救い続けています。
主の昇天の神秘は同時にキリストの目に見えない現存と目に見える実在の神秘です。 キリストの目に見えない現存は、自分の内や周りの人々の内にイエスの存在を探し求める大切な招きです。 日常生活の出来事の中で、そして自分の内にキリストを見つけるために、信仰の恵みが非常に助かります。 神はご自身を啓示すると同時に、かくれんぼのゲームが大好きです。 こうすることで、私たちが神を見つけること、神を見ること、神が与えようとする恵みを味わうという望みを私たちの内に育て深めます。 そう言う訳で、イエスは「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハネ16,7)と言いました。また、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14,18)、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16,13)とイエスは言いました。
イエスの存在は目には見えない、目立たない存在ですが、信仰の目で見ればイエスを見分けることができます。私たちの心にある神の命を妨げるものを取り除くために、イエスは毎日私たちと一緒に留まり、伴います。 聖霊と共にイエスは神の愛のうちに留まる心、愛する心、赦す心、慰める心、感謝する心を私たちの内に創造しようとします。 父のところに戻ることによって、イエスは私たちに大きな希望を与えてくださいました。 それは三位一体の神の命にイエスと共に与る希望です。 私たちをイエスの協力者とされたので、イエスと共にこの世界を救う力をいただきました。
「わたしたち自身のために生きるのではなく、わたしたちのために死んで復活されたキリストに生きるために」(参照:ローマ14,7と第4奉献文)イエスは昇天しました。 「キリストのうちにあって、私たちが神の栄光をたたえるためのまことの捧げ物になるように」(参照:第4奉献文)イエスは昇天しました。 キリストの御体と御血を拝領することで、イエスの存在は最も親密になります。 共に、教会の信仰を宣言することで、イエスはこの世の救いのために全力を尽くし働きます。 互いを互いに愛し合うことによって、イエスは全世界にご自分の平和を注ぎ込み、そして最も助けを必要とする人々をご自分の方へ引き寄せます。
今日、全人類に対する父なる神の無限な愛を宣言するために、イエスは私たちを伴いながら、地の果てに私たちを遣わします。 主の昇天の日からイエスと共に全人類が神のそばに上げられています。 したがって、全人類はその日から後、また永遠に神の一部分です。 ですから、私たちに示された神の愛に感謝しましょう。 そして全ての人を救うこの愛を、私たちは自分の生き方によってはっきりと現す恵みを神に願いましょう。 アーメン。
聖霊降臨の主日 A年 2017年6月4日 グイノ・ジェラール神父
使徒2,1-11 1コリント12,3-7、12-13 ヨハネ20,19-21
鍵をかけた家の中で、弟子たちは恐れながら何をしたら良いのか、まったく分かりませんでした。 この恐怖のせいで、彼らは未来に向かって歩むよりも過去に留まって足踏みしています。 急に自分たちの前に現れたイエスを見て、弟子たちの恐怖はあっという間に喜びへと変化しました。 イエスが弟子たちに与える平和が、彼らを勇敢な証し人、勇気のある大胆な宣教師にします。 さらに、弟子たちに聖霊の恵みを豊かに与えることによって、イエスはご自分の約束を実現しました。
創世記の話によると、神は創造された最初の人間にご自分の息を吹き込みました。 同じように、イエスは弟子たちを再び創造するために、彼らに息を吹きかけます。 なぜなら、イエスはご自分の復活の力によって、また聖霊が与える全力によって、弟子たちを通してすべてを新たにするからです。 聖ヨハネの証しによると、その日は「週の初めの日」です。 このように書いたのは、この日が「新しい創造の出発の日だった」とヨハネが理解させようとしたからです。 洗礼によって新しい人となった私たちも、聖霊の力のうちに新しい創造を実現するように召されています。
すべてをキリストのうちに集めようとする神の偉大な計画(参照:エフェソ1,1-9)を実現するために、イエスが私たちに与える平和は大きな助けとなります。 聖霊降臨の祭日は、私たちを喜びへと誘っています。 この喜びは私たちが住んでいる世界を美しくし、同時に新たにするために、私たちに大きな希望を与えます。 というのは、この世界が神の愛と赦しを受けることができるように、私たちは責任を受けて召されているからです。 ですから、イエスご自身が私たちの行いに伴い、一緒におられることを大いに喜びましょう。 さらに、ご自分の力と平和と慰めで私たちを満たすように、聖霊が与えられているので、何も恐れずに行動しましょう。
私たちの生きる信仰とは、イエスが私たちの内に吹き込んだ神の息吹です。 神が具体的かつ効果的に私たちを通して働くように、私たちは神のリズムで呼吸しなければなりません。 そうしながら、私たちは「新しい人」、「新しい被造物」となるのです。 また、神の息吹は燃える炎です。 それは私たちの信仰が光輝き、私たち自身が愛に燃える炎となるためです。 さらに、この火は私たちが愛といつくしみの言葉を語ることができるように、大きな助けとなります。 なぜなら、キリストの弟子である私たちの話し方は、どうしても自分の内に働いている聖霊の火となり、そして父なる神の愛と赦しを表さなければならないからです。
私たち一人ひとりに聖霊が与えられるのは、皆の利益のためです。 コリントの手紙の中で聖パウロはそれを思い起こさせました。 「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と。 ですから、私たちが信仰の実を豊かに結ぶように、遠慮なくたびたび聖霊の教え導きを願って祈りましょう。 信仰の実とは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(参照:ガラテヤ5,22-23)。 ですから、私たちは自分が生きている場所で、心の燃える「熱心な」証し人、平和と和解の働き手となりましょう。 私たちの救い主であり、ご自分の子であるイエスを通して、神が行われるすべての業のために、今日聖霊の喜びのうちに神に感謝しましょう。 アーメン。
三位一体の祭日 A年 2017年6月11日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト34,4-6,8-9 2コリント13,11-13 ヨハネ3,16-18
全ての宗教は、神の内にあらゆる物の全能者を認めます。 神は命と死の支配者であるからこそ、全能の神です。 神は幸福も不幸も与えることができるので、恐れられているか、あるいは敬われているのです。 神は全てを創造し、全ては神に所有されているので、人々は神を礼拝します。 この世を征服しようとする独裁者たちは、自分たちの力と暴力を正当化するために、全能の神と同じように全ての所有者であるという考え方を利用して人々を支配します。
しかしイエスは、神の愛を示すことによって、神は全能であることを教えています。 全能の神は、私たちをご自分の奴隷としてではなく、ご自分の愛する子供とします。 そういう訳で、イエスは神を「父」と呼ぶようにと、私たちを誘っています。 私たちは恐怖を感じながら神の世話をする無力な僕ではありません。 むしろ神の愛を受けながら、神の子供になることを学ぶ人であることを、イエスは教えています。 そういう目的を目指して、イエスは私たちにご自分の霊を与えます。 それは私たちが自由に神と親しい関係を結ぶように、また、遠慮なく心を開いて神に何でも話すことができるよう(参照:ローマ8,26)になるためです。 この大切なことを思い出すことで、心はおおいに喜びます。 聖パウロはコリントの信徒への手紙にこの喜びを私たちに勧めています。 三位一体の祭日に当たって「愛と平和の神」の喜びが、私たちの心に満ち溢れますように、希望します(参照:第2朗読)。
三位一体を祝うことによって 私たちが神の愛を味わい、その愛にもっと強く生きるように教会は誘っています。 なぜなら、信仰の恵みによって私たちは三位一体の神秘の中心に置かれているからです。 イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりは確かに私たちを神と等しい者とし、そして神の永遠の住み家としています。
この神秘について、よく考えましょう。 神は、ただ私たちの父で在ることに満足できず、私たちの兄弟となることを決めました。 私たちの肉を取り、「人の子」「神の独り子」となって、「イエス」の名を受け、私たちの兄弟となりました。 それは私たちが神の似姿に造られた事実を、人々が忘れないためでした。 人間になったイエスは、父なる神と結ばれている子としての関係を、私たちに体験させようとします。 同じ愛の神秘の交わりの中で、私たちは聖とされます。 つまり、神は自分の父であり、イエスと父を結び合う愛は聖霊であることを教えます。 全人類を救い、癒し、聖化するこの愛に完全に生きるように、三位一体の神は私たちを強く招きます。
また、人々が兄弟姉妹として親しく生きるように、イエスは私たちにご自分の霊を与えてくださいました。 この聖霊こそが、神が私たちに与える命であり、また私たちに注がれる神の愛です。 私たちはこの愛を受けて、この聖霊で神を愛し、私たちもお互いに愛さなければなりません。 神の愛は決して抽象的な観念ではありません。 神の愛は個人的に全ての人、一人ひとりに提案されています。 神の愛は無限であり、全てに惜しみなく及びます。 第一朗読が思い起こさせるように、この愛は「憐れみ深く恵みに富む、忍耐強く、慈しみとまことに満ちています」。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とイエスは私たちに教えています。 たしかにイエスと共に、神の愛と聖霊の賜物が世に与えられています。 三位一体の神を信じ、歓迎する人は、既に永遠の命に与かっています。 なぜなら、イエスがそのように教えたからです。 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられる父と、父のお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(参照:ヨハネ17,3)と。 ですから神の神秘をますます知るようにお互いのために祈りましょう。 アーメン。
キリストの聖体の祭日A年 2017年 6月18日 グイノ・ジェラール神父
申命記8,2-3、14-16 1コリント10,16-17 ヨハネ6,51-58
イエスは命のパンです。 ご自分のみ言葉によって、そして全ての人の救いのために捧げられたご自分の命によって、イエスは命のパンです。 確かにイエスはご自分の教えと糧となっているご自分の体で、私たちを養います。 そういう訳で、ミサ祭儀は必ずイエスのみ言葉とイエスの御体で構成されています。 私たちが聞くイエスのみ言葉と、私たちがいただくイエスの御体は、私たちの奥底の一番親密なところに、復活されたキリストの現存を置いておきます。
キリスト者はある宗教に属するものではありません。 キリスト者は、イエスに実際に張り付く者なので、キリストとして三位一体の神と一致する者です。 ラテン語の「religio」という単語は、自分が信仰によって、また、だんだん拡大する親密さによって神と自分が結び合うことを意味します。 言い換えれば、「宗教」=「religio」は「絆」に等しい意味です。 ですから、キリスト者は生きるためにどうしても神と深く一致したいと望む人です。 キリスト者は、神の言葉の飢えと渇きを持つ人です。 そのために命のパンとして自分自身を差し出すイエスは、ご自分の命に生きることを可能とします。 ただイエスだけが、私たちが持っている神への飢えを癒し、また満たす方です。
従って、神とますます一致するために、私たちは日ごとにイエスのみ言葉で自分たちを養う必要性があります。 神の言葉が、自分たちの人生を建てる強い岩でなければなりません。 神の言葉を黙想することによって、そしてキリストの御体と御血をいただくことによって、私たちはキリストと共にそして神の栄光のために一つの心、一つの体、一つの霊となります。 ご存知のように聖アウグスチヌスは、聖体を信者の手に渡す時に「あなたは受ける方となりなさい」と言う習慣がありました。 即ち、「あなた自身が世を救う新しいキリストとなりなさい。 自分のためではなく、あなたのために死んで復活されたキリストのために、生きる者となりなさい」と言っているのです。 聖パウロのエフェソの信徒への手紙を説明した司教聖イレネオは、聖アウグスチヌスの教えを立証しました。 「私たちは復活されたキリストの体であり、彼の骨の骨、肉の肉」(参照:創世記2,23)であると聖イレネオは教えました。
今日のキリストの聖体の祭日に当たって、世界の人にとって私たちはキリストの顔と姿となることを思い起こしましょう。 「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」と私たちは度々歌っています。 ローマとガラテヤの教会への手紙の中で聖パウロは、それを度々思い起こさせます(参照:ガラテヤ2,20、ローマ6,3-4)。 イエスのみ言葉や御体と御血をいただくために、キリストの傍に集まっている私たちは、イエスの神秘的な体となることを学んでいます。 この神秘的な体は私たちが生きているこの世界を救い、また変容させることをよく知って下さい。 聖パウロと共に恐れずに私たちも次のことを宣言しましょう。 「私たちにとって、生きるとはキリストです」(参照:フィリピ1,21)と。 アーメン。
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